バレエは「イタリアで生まれ、フランスで花開き、ロシアで成熟した」と言われていますが、
適切に言い換えるとすれば、
「イタリアでバレエの起源となる”宮廷舞踊”が生まれ、フランスでバレエとして花開き、ロシアで成熟した」
という表現が正しいと思います。
では、その「宮廷舞踊」はどのようにしてイタリアからフランスに伝わったのでしょうか?
今回は、なぜイタリアからフランスに宮廷舞踊(後の宮廷バレエ)が伝わったのか、
分かりやすく簡潔に説明していきます♪
なぜイタリアからフランスに宮廷舞踊(後の宮廷バレエ)が伝わった?
ルネサンス期のイタリア・フィレンツェには、実質的な支配者として君臨していた一族がいました。
それは、メディチ家です。
その一族の一人、カトリーヌ・ド・メディシスが16世紀前半にフランス国王に嫁いだことにより、
主に社交術であった「宮廷舞踊」がイタリアからフランスに伝わったとされています。
では、詳しく見ていきましょう。
イタリアにおける「宮廷舞踊」
イタリアは文化的先進国であり、15世紀の頃から舞踊劇が行われていました。
そんなイタリアにおける「宮廷舞踊」は主に社交術で、貴族の館でのパーティーで踊られた踊りと言われています。
ルネサンス期を代表する芸術家、レオナルド・ダ・ヴィンチが衣裳デザインと舞台装置を手掛けたパーティーもありました。
また、当時のイタリアでは舞踊教本が出版されており、「バットマン」「ピルエット」「アントルシャ」など、後のバレエの基本的なパの原型になるテクニックが書かれていたそうです。
メディチ家とは?
メディチ家とは、イタリア・ルネサンス期(15~18世紀)のフィレンツェにおける銀行家・政治家であり、実質的な支配者として君臨していた一族です。
フィレンツェの繁栄をもたらし、文芸保護にも力を注いでいました。
そして、その一族の一人として生まれたのが、カトリーヌ・ド・メディシスです。
カトリーヌ・ド・メディシスとは?
先ほど説明したように、カトリーヌ・ド・メディシスとはメディチ家の一人です。
1533年、後のフランス国王アンリ2世と結婚し、人生の大半をフランス王族として過ごしました。
カトリーヌは「宮廷舞踊」だけでなく、イタリア・ルネサンスの学問・芸術・食文化などをフランスに伝えたとされています。
そして、フランスにもたらされた「宮廷舞踊」は、後に「宮廷バレエ」として発展しました。
※ちなみに…カトリーヌ・ド・メディシスは、バレエの歴史を語るのに不可欠な人物ですが、実はサン・バルテルミの虐殺(フランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件)で、悪名を残したことで世界史上でも有名です。
↓カトリーヌ・ド・メディシス
<a href=”https://www.wikidata.org/wiki/Q3104123″ class=”extiw” title=”d:Q3104123″><span title=”French painter”>Germain Le Mannier</span></a> – Susanne Girndt (Red.): Schlösser der Loire. Bassermann, Niedernhausen 1996, <a href=”//commons.wikimedia.org/wiki/Special:BookSources/3-8094-0290-7″ title=”Special:BookSources/3-8094-0290-7″>ISBN 3-8094-0290-7</a>, S. 75, パブリック・ドメイン, リンクによる
まとめ
イタリアからフランスに「宮廷舞踊」が伝わったのは、イタリア・フィレンツェのメディチ家の一人、カトリーヌ・ド・メディシスがフランスに嫁いだから。
【次に読みたい】 「宮廷バレエ」とは?
今回、イタリアからフランスに伝わった「宮廷舞踊」は「宮廷バレエ」として発展した、とご紹介しました。
次回は、「宮廷バレエ」とは何なのか、をご紹介していきます。